これまでもたまにブログに登場していたオカンの話です。
実は、今年に入ってから、私の周りでとても大きな変化がありました。 今日は少し、そのお話をさせてもらおうと思います。
今年の夏前から、母と一緒に暮らすことになったんです。
というのも、母が5月に実家から救急搬送され、そのまま神戸の病院に入院となりました。 一時は『峠』を宣告されました。幸い退院はできたのですが、お医者様から「退院後の一人暮らしは難しい」という判断が出たんです。 それなら、私が東京で引き取って一緒に暮らそう、と。 そう決めて、新しい生活がスタートしました。東京に来てからも、母の通院は続いていました。
私はもう35年も東京に住んでいるのですが、もちろん母にとっては慣れない土地です。 その慣れない場所での病院通いや日々のサポートは、正直大変な部分もありました。
実は、同居を始めた最初の2ヶ月くらいは、母とたびたび衝突というか…喧嘩もしました。 今思えば、私自身も「どうサポートしたらいいんだろう」という戸惑いがありましたし、母にしてみたら87歳でいきなり知らない土地に “連れてこられた” という不安や戸惑いが大きかったんだと、今は思えます。
でも、そんな時、なにより妻が献身的に介助してくれたんです。 彼女のサポートがあったからこそ、母も私も、だんだんと穏やかな気持ちで同居生活を送ることができました。本当に感謝しかありません。
そうやって少しずつペースができてきて、久しぶりに母と毎日顔を合わせて「おはよう」や「おやすみ」を言える生活は、どこか新鮮で、大切な時間でしたね。
そんな生活の中、実は半年の間に2回も救急搬送されることがありました。
1回目は、2週間ほど入院したのですが、無事に治療を終えて退院することができました。 「よかった、ひと安心だ」と、胸をなでおろしたのを覚えています。
でも、2回目は先月10月の下旬でした。 母が夜高熱を出して即入院、高熱をきっかけに持病も悪化してしまって。 とても強い点滴での治療(化学療法なども含めて)を懸命に続けました。
病院の先生方も本当に尽くしてくれたのですが、残念ながら改善は見られず…。 11日の深夜、母は静かに息を引き取りました。
亡くなる前日のこと。 本人の希望もあって、緩和治療(※)に切り替えていました。前日は呼吸はシンドいようでしたが、ある程度の会話、意思疎通もできました。(※緩和治療というと、最期を待つだけ…というイメージがあるかもしれませんが、そうじゃないんですよね。母の場合も、痛みを和らげながら治療を継続するための選択でした)そのおかげか、眠っているように、とても安らかな顔で旅立っていきました。 苦しむ様子がなかったことだけが、本当に救いです。
そして本日2025年11月14日、家族だけで葬儀を行い、静かにお見送りしました。
母が東京に来てから、半年。あっという間の時間でした。 同居が始まった当初は、終わりの見えない道のようで、精神的にも大変でした。 4ヶ月過ぎた頃でしょうか、母と話す時間をたくさん取ることで、お互いに抱えていた色々な感情を、少しずつ解きほぐすことができてきた矢先でしたので…。
もっと何かできたんじゃないか、と思うこともあります。 でも、病気という形ではあったけれど、最後にこうして一緒に生活できたことは、私にとって、そしてきっと母にとっても、すごく大きな意味があったと思っています。
…なかなか湿っぽい話になってしまいましたが、私は元気です。 またブログも、サックスのことも、自分のペースで進めていきますね。 読んでくれて、ありがとうございました。

この写真を撮影した10月上旬は、とても元気で、髪型を変えてみたりとオシャレを楽しんでいたのですけどね・・
まぁこれからは、15年前に先に逝った親父と、二人でゆっくり過ごしてくださいな。いろいろありがとうございました。
