今日1/17は30年前に阪神大震災があったんですよね。
実家が神戸市長田区なんですが、私自身はすでに東京でくらしていました。
あの日の朝はバイトに行くために朝目を覚まして、テレビをつけたら なんか
「大地震・・・・・」というスーパーが目に飛び込んできました。
場所はよく分からなかったのですが、よくよく見ると神戸・・・
正直なところ、神戸で大きな地震なんて起きたこともなかったので、どーーせたいしたことはない と、報道を見ながらもおもってしまいました。
「とりあえず バイトは休もう~~」と なんだか いい理由ができたーー
くらいの勢いでバイト先に電話したくらいです。。。
午前中不幸にも亡くなった方が7人という感じでしたので、亡くなった方には
申し訳ないのですが、あれほどの被害がでているとは思いもよりませんでした。
しかし午後には700人を超え流石に危機感がうまれました。
連絡をとろうと電話しても一向に繋がらず、すぐに神戸に向かうことも考えましたが
そのときの状況では移動手段も皆無でした。
※当時は携帯電話は普及していないし、イエデンしか連絡手段もなかったこともあり、発生から何日たっても連絡手段がありませんでした。向こうからもかかってきませんし。
NHKでは夜になると死亡者名簿が読み上げられ、いやな思いをしながら
名前に聞き入っていました。
連絡もとれないまま数日が過ぎたある夜、ついに知り合いの名前がNHKで
読み上げられました。
もちろんカタカナ表記でしたから確証はありませんでしたが、
翌日新大阪までしか行かない新幹線に乗り込みました。
新幹線には被災地に向かうらしき沢山の人たちが乗り込んでいました。
みんな言葉も少なくほんと重い空気だったのを覚えています。
新大阪から電車で行けるところまで行きましたが、実家までは30キロ近く歩くしか
ありませんでした。目にした光景はいまでも忘れられません。
高速道路が倒れてて、ビルが積み木のように崩れ、また別のビルが原型を留めたまま
根本から横倒しになっていました。
木造民家はまるで落ち葉が風で吹き溜まったように瓦礫の重なりとなっていました。
そこから実家までは、同じく神戸に向かう長い人の列に並んで蟻の行列の
ように歩き続けました。潰れた家屋地面には 家族の安否がかかれた
紙片が無造作に置かれていました。町中が異様な匂いにつつまれ聞こえるのは
サイレンとヘリコプターの音しかありませんでした。
どれくらい時間をかけて実家に戻ったのかも記憶に無いのですが、実家に
ようやくたどり着くと 幸いそこに家族はいました。家は傾いてて瓦は全部
落ちてプルーシートが付けられていました。とりあえず生きててよかった。。
すでに発生から7日ほど経っていて電気は復旧していましたが、ガス・水 は依然不通でしたから、給水車がくる時間に
なるとポリタンクをもった長い行列ができていましたし、水貰いに行くのがほんとうに重労働でした。もちろんお風呂には入れませんし、トイレも非衛生だけど殆ど流すことができませんでした。それもあって、いまでも、残り湯はそのまま風呂桶に貯めておく習慣があります、何回かでもトイレ洗浄に使えれば、それだけでも相当負担は減りますし、マンションのエレベーターが停止したままになったら、それこそポリタンクで水を汲みに行くのは不可能ですし・・・
母校(小学校)には家を失った被災者の方が沢山テント生活をされていました。
そのなかに懐かしい友達とも会いましたが、久しぶりの感動は無く、言葉少なく
挨拶をした程度でした。
実家の正面には山がありましたが、その山が崩れ斜面に建っていた家屋の
むかし世話になったお好み焼き屋のおばちゃんも亡くなったとききました。最終的には、がけ崩れや家屋倒壊で、うちの町内だけでも沢山の方が亡くなりました。
30年経ち、正直なところあのときのダイレクトな心境・あのあと数年、生活が激変してめちゃくちゃ大変だったこと・・などは、思い出に変わりました。ただ、倒れた高速道路・ビル・家屋・・・ あの光景はいまでも鮮明に覚えていますわ。